怒る資格なんて無い気がした

駐在員のAさんと知り合ったのはまだ留学前のことだ。商社で働くOBとして、私の大学に講演に来ていたことがきっかけだった。
そのときAさんは「女性に総合職は無理だね」と言った。私はあいまいに笑い、適当に話題を変えた。彼は大企業の重役で、私は普通の大学生。口答えなんてありえなかった。
その後何度もAさんから連絡があり、誘われるままに会いに行き、食事をご馳走してもらった。1人で行くのはどこか不安に感じたので、常に同期の男子に同行してもらっていたが。そこまでしてAさんとの縁を保っていたのは、当時就活で商社も視野に入れていたからだ。
Aさんは下品な冗談を言うこともあったが、業界や留学予定国の事情について、いつも有意義な情報を教えてくれたし、役に立つ本も紹介してくれた。私はAさんに気を許し始めていた。

留学開始から1週間ほど経ったころ、出張に来ていたAさんに食事に誘われた。渡航直後だったので、着いてきてくれる男友達がまだいなかった。少し迷ったが、すでにAさんをそれなりに信用していた私は、1人で会いに行ってしまった。
その日、Aさんはいつものようにビジネスの話を聞かせてはくれず、代わりに、「愛人にならない?」「男を知らないとだめだよ」「ホテルの部屋においで」など、下品な言葉を繰り返した。不愉快でたまらなかったが、それまで何度もご馳走になっていた以上、そのくらいは我慢しなければならない気がして、やはりあいまいな笑顔でやりすごし続けた。
ようやく食事が終わり、別れ際。腰に腕を回され、顔にキスをされた。
そのときAさんの顔も見ずに走り去ったのか、それともいつものように丁寧なお辞儀をして別れたのか、どうしても思い出せない。
屈辱と悔しさで、ショッピングセンターのトイレで嘔吐した。Aさんにご馳走された食べ物が、体の中に残るのが耐えられなかったのだ。
それから数日間、何度もそのときのことを思い出して吐いた。

私から電話でその話を聞いた母は「あなたを可愛く思ったからそうしたのよ。そんなに怒んないであげなさい」と笑っていた。
「こんなことでいちいち傷つくなんてナイーブなんだから」「気にしていたら社会ではやっていけない」とも。

1人で会いに行った私が悪い。ご馳走してもらったのだから文句を言う権利は無い。怒る資格はない。そもそもこんなことは大したことではない。大騒ぎする私がおかしい。
1か月ほど、こんなことを考え続けた。

すべてを変えてくれたのは、たまたま私の留学先に旅行に来ていた友人だった。
彼女にあの日のことを打ち明けたとき、やはり私は笑っていて、「ほんとに困ったひとだよねえ」というような笑いごととして話そうとした。でも彼女は心の底から怒り、その人が許せないと言って、大学の女性教授に報告することを提案してくれた。
私は何より、彼女が私のために怒ってくれたことが、たまらなく嬉しかった。自分がされたことに対して怒っていいんだと初めて思えた。

私がもっと早い時点でAさんとの縁を切ったり、あるいは彼に立ち向かったりすることができなかったのは、やはり就活が気にかかったからだ。
ここで我慢しなければ、将来後悔するかもしれない。重役であるAさんとの関係を損ねれば、将来その会社にエントリーするとき不利な扱いさえ受けかねない。そんな不安に、Aさんはつけ込んできたのだと思う。
留学先の駐在員というのは、多くの学生にとって憧れの存在だし、多少嫌な思いをしても縁を保つことを選ぶ学生もいるだろう。その過程で少しの我慢を積み重ねていくと、相手の行為もエスカレートする。
おそらくAさんの被害に遭ったのは私が初めてではないし、彼のような駐在員は多くいることだろう。あのような目に遭う学生が私たちで最後になることを、切に願う。(Yさん)