私たちは、留学中に性被害にあったことのある被害当事者の声を匿名で集めています。

当事者には言葉にすることで自分の尊厳を取り戻してほしい、

そして当事者でなくともまずは実態を知ってほしい、という思いからこのページは生まれました。

※このページには性暴力の描写が含まれます。
実際に被害に遭われた方などはご自身で判断してお読みください。

遠い存在だったはずの“性被害”

大学2年の留学中、駐在員の日本人Aとその関係者Bから性被害を受けました。2年経つはずの今でも、思い出すと涙が溢れてきます。同じ経験をする人を無くしたいと思い、ここに私の体験を記します。


留学から2カ月経ったある日のこと、現地で出会った日本人大学生に社会人とご飯食べに行くから来ない?と誘われました。特に何も考えずに、いいよーと返事しました。てっきり社会人は、自分と近い年代かと思っていましたが、到着し待っていたのは自分の父より年上の50代の2人組。当時の私は、わ大人の方!受け答えしっかりしなきゃ、くらいしか考えていませんでした。そしてご飯を食べている中で、駐在員Aは私と同じくらいの子供がいることを知り、自分の父も長らく駐在員だったこともあり、父と重ねながらその人に信頼の眼差しを向けながら最初は会話を楽しんでいました。しかし段々と、Aに「この国では一気飲みをしなければいけない」とお酒を強要されていきました。現地でお酒を飲んだことがなかった私は、その事実を真に受け”郷に入っては郷に従えで飲まなければいけないのか”と思い何度か一気飲みをしました。まさかそのお酒が50度とは知らずに。酔いそうになったので途中からお水を飲みましたが、気持ち悪くなりトイレへ。戻るとグラスにワインが注がれていて「美味しいから飲んでみて」と。「さすがに飲めないです」と伝えましたが、「そしたらじゃ量の少ない方のお酒を。」と渡されました。さすがに断ったら申し訳ないと思い、また知らずに50度のお酒を飲みました。


そして一緒に来ていた友人が立てないくらいに酔ってしまったので、その方々に送ってもらうことになりました。もはや父親のような存在に感じていたので、危ないという認識は一切なく、送ってもらって申し訳ないなぁと車の中では思いながら自身も意識を失っていました。そして着いたのはどこかの駐車場。頭がハテナでしたが、Aが「私の友人が吐いているから家で介抱する」と言いAとBが友人を抱えながら連れていきました。さすがに、彼女だけ置いていくのは、、と思い私も後ろから付いていきました。そしてAの家に着いた瞬間、私も酔いが回り記憶が飛び次の瞬間にはベッドにいました。そしてBが覆いかぶさってきたのです。パニックになった私はもう一度意識を失いました。そして気づいたら自分の服が脱がされ、抵抗しても聞いてくれず被害に遭いました。部屋からようやく出られたとき、目の前にAが。「なんかあった?」と優しく聞かれ、「なんもないです~」と心配させまいと言ったところ、「こっちおいで」と今度はその人に無理やり脱がされそうになりました。ここで驚いた私はとっさにBに助けを求め、Bが介入してくれました。そしたらAに「あーもうできてんのか、次はじゃあ俺と」と言われ、無理やり連絡先を交換されました。


帰宅したときは、何も理解できておらず呆然としながら寝ました。翌日、ルームメイトに話し、産婦人科、精神科に行くことを勧めてもらい検査をしました。幸福なことに身体に問題はありませんでしたが、心の傷は今でも消えていません。「お前が悪い」と周囲からセカンドレイプに遭ったことも尾を引いているのかもしれません。
当時も今でも自分がお酒を断っていれば、信用していなければ、あの時強く抵抗すれば、と自責に駆られてしまいます。そのときは性的同意がなかったのに起こったことはレイプだ、自分は悪くないと考えるようにしています。
もしこの体験談を読んでくださった方で、自分も悪かったのかもしれないと思ってしまう方がいたらそんなことないと強く伝えたいです。あなたは悪くない。そう伝えることで、自分自身も救われる思いがします。


性被害、ってどこか他人事に感じていましたが全くそんなことはない、そして年齢も国籍も関係ないと皆さんに伝えたいです。
被害を受けた方へ。私は死にたくなくなるときがあります。でもいつも強がって誰にも言わずに笑顔で生きてしまいます。あなたは一人じゃありません。そして悪いのは加害者だけです。あなたはなんも悪くないんです。ただ、私は悪者から性被害に遭ったというのはあまりにも辛いので加害者も社会が生み出した被害者なのだと思うようにしています。(Tさん)

怒る資格なんて無い気がした

駐在員のAさんと知り合ったのはまだ留学前のことだ。商社で働くOBとして、私の大学に講演に来ていたことがきっかけだった。
そのときAさんは「女性に総合職は無理だね」と言った。私はあいまいに笑い、適当に話題を変えた。彼は大企業の重役で、私は普通の大学生。口答えなんてありえなかった。
その後何度もAさんから連絡があり、誘われるままに会いに行き、食事をご馳走してもらった。1人で行くのはどこか不安に感じたので、常に同期の男子に同行してもらっていたが。そこまでしてAさんとの縁を保っていたのは、当時就活で商社も視野に入れていたからだ。
Aさんは下品な冗談を言うこともあったが、業界や留学予定国の事情について、いつも有意義な情報を教えてくれたし、役に立つ本も紹介してくれた。私はAさんに気を許し始めていた。

留学開始から1週間ほど経ったころ、出張に来ていたAさんに食事に誘われた。渡航直後だったので、着いてきてくれる男友達がまだいなかった。少し迷ったが、すでにAさんをそれなりに信用していた私は、1人で会いに行ってしまった。
その日、Aさんはいつものようにビジネスの話を聞かせてはくれず、代わりに、「愛人にならない?」「男を知らないとだめだよ」「ホテルの部屋においで」など、下品な言葉を繰り返した。不愉快でたまらなかったが、それまで何度もご馳走になっていた以上、そのくらいは我慢しなければならない気がして、やはりあいまいな笑顔でやりすごし続けた。
ようやく食事が終わり、別れ際。腰に腕を回され、顔にキスをされた。
そのときAさんの顔も見ずに走り去ったのか、それともいつものように丁寧なお辞儀をして別れたのか、どうしても思い出せない。
屈辱と悔しさで、ショッピングセンターのトイレで嘔吐した。Aさんにご馳走された食べ物が、体の中に残るのが耐えられなかったのだ。
それから数日間、何度もそのときのことを思い出して吐いた。

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古い価値観が残る海外の日本人コミュニティ

大学3年の留学中、大使館主催の新年会でジェンダーハラスメントを受け、悔しい想いをしました。

顔見知りの男性に「こっちのテーブルにおいで」と言われ、ついて行くとそのテーブルには40代~50代の商社勤務の男性が5名いました。自己紹介をするように言われ、なぜこの国に学びに来たのか、日本の大学ではどんなことを学んでいるのかなどを伝えました。

すると私を囲っていた男性たちは
「そんな真面目なことはいいからさ!Tちゃんお酒はどれくらい飲めるの?毎晩交代でおじさんたちの相手をしてよ~。月曜日は○○さん、火曜日は△△さんで…」
「おじさんたちお金はあるからさ!おいしいものごちそうするし!」と。

唯一の顔見知りの男性に助けを求めようと顔を見ると、「えっTちゃんと□□さんできてるのー!?」。□□さんはご家族で駐在されています。
別の方には「僕、最近離婚したんだけどどう?Tちゃん独身だよね?お金には困らせないよ!」と。

その会場には大使館の方や、駐在員の奥さんたちもいましたが誰も助けには来てくれませんでした。ある奥さんは「若いっていいわねぇ」といって通り過ぎていきました。

異国の地で初めて日本人コミュニティで交流できる機会に期待して行った私はすごく悲しく、私にはお金で買える「若い女」としての価値しかないような気持になりました。(Tさん)

弱い立場だからこそ逃れられない苦しみがある

  留学先で出会った中高年で妻子持ちの駐在員に「二人で旅行に行かない?」「付き合わない?」と言われ、二人での食事にしつこく数か月にわたって誘われました。こんなことが起こらなければ、もっと有意義で充実した留学生活になったのではないか、と今でも悔しい思いをすることがあります。

 その駐在員と出会ったのは、留学生と現地駐在員との交流会でした。ちょうど私がいたテーブルに彼がいたので少し話しましたが、高圧的で学生を見下す態度が気になりました。その時、後で連絡ちょうだいと彼から名刺をもらいましたが、いい印象ではなかったですし、特に伝えることもないので連絡しませんでした。

 ある日、その駐在員から二つのSNSを通じて、連絡が取りたいというメッセージが来ました。電話で伝えたいことがあると言われたので、不信に思いつつ電話に応じました。はじめは留学生活や学業のことを聞かれました。しかし、旅行の話になると「二人で旅行に行こう」と誘われ、今度知り合いの有名人が日本から来るという話になると「その人を紹介してあげる。でもその前にあなたのことを知りたいから二人で食事に行こう」と言われました。その他、耳を疑うような発言を繰り返されました。

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海外だからこそ、何が正しいのかわからなくなる

留学して暫く経ち、定期的に「家に遊びに来ないか、久しぶりに日本食を食べたくなるころじゃない?日本のテレビ番組も家なら見れるよ」と誘われるようになりました。

家に行くのはまずいのではないか、でも色々お世話になったし、あまり失礼な断り方は良くないかな、と「外のレストランにしませんか?」と提案し続けていましたが、あまりにも誘われ続けていたので一度お付き合いで行けばもう相手も家には誘ってこないだろう、と思ったのが間違いでした。

 

そこで被害に遭いました。その人がまるで別の人かのようになっていたこと、どれだけやめてくださいと泣いても全く相手に届いていないことに、身体もそうですが、まず心が傷つきました。道もGoogleマップがなければ分からないからすぐに追いつかれてしまうだろう、異国の地で服が乱れた状態で外に出る方が危ないのではないか、荷物を置いては逃げられない、必死で相手を逆撫でしないことだけを考えていました。

その後、しばらくはなぜかあれは大したことじゃなかったんだと思っていました。

ある日、偶然現地のある日本人女性から話の流れで「○○さんは気を付けた方がいいよ。」と言われ、ぞっとしたのを今でも忘れられません。詳しく話を聞くと、その女性にもセクハラをしていたことが分かりました。今になって分かりましたがその駐在員の被害者は他にもいました。

話してくれた女性に初めて全てを話して、言語化することによって初めてあれはおかしかったと気づきました。その女性が多くのサポートをしてくださったおかげで、現地で性病の検査をしたり、日本の弁護士にお願いして慰謝料を請求することが出来ました。

全て終わってやっと、はじめて「私は悪くなかった」と思えるようになりました。

今でも、ふとした瞬間に、受けてきたセカンドレイプの言葉に苦しくなる時があります。「なんで家に行ったの?」「男はそういうものなんだから女側が気を付けるものでしょ」「本当に同意してなかったの?」そういった言葉を内面化してしまって自分を責める時もまだ多々ありますが、こうやって人に話すことで、これから被害に遭う学生を少しでも減らせたら、私自身も癒されるのではないかと思っています。(Cさん)

日本人が自分以外にいない状況での現地の人からの性被害

私が東南アジアのある国に滞在をしていた時にレイプ直前の性被害を受けました。

インターンシップとして1年間現地で日本人1人で働く日々でした。

ハロウィンのシーズン、友達で集まってハロウィンパーティーに参加していました。参加者の多くが酔っぱらい始めた中、それぞれが家に帰ることになりました。信頼していた現地の友達Kの友達Aが参加者として来ていたのですが、Aがバイクで私を家まで送り届けてくれるとのこと。私の家は少しその場所から離れた場所にあったので、純粋にありがたかったのです。私は夜なのもあり、少し心配でしたが信頼していたKに「この人はいい人だから大丈夫」と言われ、Aのバイクの後ろ座席に乗りました。

そのまま家の方向に向かうと思いきや、バイクは普段私が行ったことのない方面に向かい始めました。私が怒ってどこに向かっているのかと聞いても何も答えず、私は今までに行ったことのない薄暗い場所で降ろされました。そこで力づくでキスをされ、レイプをされそうになりました。「家に返してくれ」といって私が泣き叫んでも何も状況は変わりませんでした。

小雨も降っており暗く誰にも見つけてもらえないだろうと諦めていた時、友達のKが駆けつけて号泣する私を助けて家まで送ってくれたのでした。あの時、もしKがあのまま私を見つけてくれなかったらと思うとゾっとします。

被害にあった後は、私をこんな目に合わせた相手を罰してほしいという思いが持ちながらも、所属団体の評判が悪くなったり、現場の方々との関係にヒビが入ったりしてしまうのではないかという恐れが強く、現地警察や周りの人々にも相談できずにいました。そんな中で信頼している現地や日本の方から「あなたは絶対に悪くないから、今は何も考えなくていい」と言ってもらったときにどれだけ救われたか、想像できるでしょうか?

一方で、真剣に話を聞かないで「途上国で他人を信頼してバイクに乗るお前がバカだろ」といったような言葉を浴びせられ、セカンドレイプを受けたことは心の中でずっと突っかかったままでいます。自分の意思に反する形で性的に搾取される、こんなにも理不尽で苦しい経験をこれから海外で頑張る学生たちにしてほしくないと心から願っています。

自分自身の声をあげることで何か変わると信じて。(Mさん)

当時、天真爛漫で無垢で無知だった私へ

まず当時の私に言いたいことがある。『絶対にあなたは悪くない。』

留学を終え帰国の週になったある日、現地に住む駐在員に「明日、日本人会であなたのお別れパーティーをしよう」そう言われ、指定された時間にパーティー会場にいくとそこには誰もいなかった。そして、そこで私は日本人駐在員からレイプ被害に遭った。

私の留学していた国はいわゆるみんなが留学先として想像するような先進国ではなく、アフリカであった。留学当時18歳、希望に満ち溢れ、いつかは絶対にアフリカで起業すると決めていた。現地に住む日本人は様々な企業の駐在員や、公的機関で派遣されてきた人たちが多く、留学でくるような学生は本当に年に片手で数えられるほど、もしくは0に近かった。感染症や治安面でも先進国と比べあまり良くなかった環境下の中で、日本人同士の繋がりが非常に強かった。現地では、アジア人でアフリカにくる=お金持ちというような社会通念があり、アジア人であるがゆえに狙われやすかったりもした。それゆえ、普段からまとまったお金を持ち歩くことができない。

しかし、突発的な事故、マラリアにかかった時、頼る人がいないと現地の病院や、お金のことに関してなど。自分で全てを解決することは難しかった。だから、現地の日本人とのコネクションがリスク管理の面で情報共有の面から非常に大事であった。自分の命に関わることだから、私は日本人とのコミュニティは非常に大事にしていた。現地の日本人の方々は娘のように良くしてくれる方もいれば、食事に声をかけてくださる方もいた。私としては、日本人の方々との関係性は、大きな学びの機会であった。アフリカならではのビジネスは何をしているのか、どんな商材だったらアフリカで売れるのか、現地でビジネスをする上で何が大事なのかを、日本では絶対に出会うことがないような人たちに会うことが多く、現地の生の声を学ぶとても貴重な機会でもあった。起業する前に就職を考えていた企業の方もいた。

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